天使・前5

『「魔法の売り場」という話の記憶』

妹はエスカレーターに乗るのを怖がった。
段々が次から次にでてくるので、どこに乗ったらいいのかわからないようだったけど、あとでよく考えると、次から次にでてくる段々が多すぎて、それが怖かったのかもしれない。
蟻の巣にいたずらしたら、うじゃうじゃあと黒い蟻がわいてくるみたいなもんだ。
でも、やっぱり、よく考えても本当は妹がなにを怖がっていたかなんてわからない。
僕はエスカレーターのステップのところで、妹の左側に立ち、妹に手を差しだす。
小さかった手。
僕と妹は握った手をふりこみたいに揺らして、タイミングを取った。
いっせーのーでっ。
妹の手を引っ張りあげながら、僕と妹はエスカレーターの一つの段に乗ることができた。
すぐ横には下りていくエスカレーター。僕と妹は昇っていく。
僕はお正月におじいちゃんにもらったお年玉で、マジックセットを買おうと思っていた。
マジックセットを買って、練習して妹に見せて、友達の誕生会で披露して、そして、手品師の人みたいにデパートのマジック売り場で、いろんな手品をする人になろうと思っていた。
エスカレーターはすぐに次の階に到着する。
あと、三回、エスカレーターに乗らないといけない。
大変だ。
でも、妹は二回目は一回目よりエスカレーターに乗るのが巧くなっていたし、三回目は二回目より巧くなっていた。
マジック売り場に向かうとちゅう、お愉しみ広場で、おみくじ大会をやっていた。赤いエプロンをしたおじさんが、風船を持ちながら「おぉい。おみくじやぞー。大吉、引いたら、福袋があたるでー。どうや。どうや」と歌っている。僕は妹の手を握り合図した。妹は僕の顔をみてから、僕のみている方に顔を向けた。
妹は風船が欲しいようだった。僕はおじさんに風船をもらい、妹に手渡した。薄い水色の風船を嬉しそうに見つめる。飛ばないように、ひもの部分を強く握った。
おじさんは妹に、「お嬢ちゃん。福袋が当るよ、福袋。おみくじやらん?」と話かけてきた。
妹は、おじさんの顔をじっとみつめていたけど、
「お兄ちゃん」と握った手で話かけてきた。
僕は、「今から、手品を買いに行くんです」と言って、その場から離れた。
妹は、風船の水色を見つめながら、僕に手を引っ張られていた。
マジック売り場の前には、子供たちがたくさんいた。
みんな、手品師の手をじっとみている。
手品師の人は、赤いチョッキに蝶ネクタイをし、偉い人のかぶるような帽子をかぶっていた。
僕たちはもっと近くで見ようとしたけど、子供たちの後ろには腕を組んだ大人たちもいて、手品はほとんど見えなかった。僕と妹は、少しの間、そうしていたけど、なかなか前に進むことができなかった。
妹がつまらなさそうにしだしたので、屋上に行く階段に向かうことにした。
一つ上の階は屋上遊園で、ベンチもあるし、人もそんなにいないだろう。
僕は妹の手を引いて、階段を登る。
階段は、何回、段々を数えても、同じ数になるから、妹も怖がらないだろうと思った。
途中の踊り場で、さっきの手品師の人と同じ、赤いチョッキを着た、おじさんが座っていた。
おじさんは僕と妹をみると、少し微笑んで、でも、ため息をついて肩を落した。
本当に肩がはずれるぐらい、頭を前に倒して。
僕はおじさんの横を通りすぎようとしたけど、妹はおじさんの頭をじっとみつめて動こうとしなかった。
おじさんは首を上げて、妹に向かい、「お嬢さん、なにか欲しいものがありますか」と聞いた。
僕は「あの。マジックセットを買いにきたんです」と説明したけど、おじさんは今度は僕のほうをみて「マジックセットじゃないだろう。本当に欲しいものは」と言った。
僕はわけがわからないまま、妹の方をみる。
妹は、手を一回、ぎゅっと握り、風船の水色をみて「うみ」と口を動かした。
妹は、確かに海といった。
妹は、耳が聞こえない。だから、言葉を発せられない。
「うみか。海の歌が聞きたいのかな」
おじさんは立ち上がりながら、上着のポケットに両手をつっこんだ。
おじさんはよくみると、おじさんというより、おにいさんみたいだった。
妹はおじさんの方をみて、にっこり笑った。
今年はじめての妹の笑顔だった。
「初笑い」
とおじさんというより、おにいさんはいって、
「もし、お金があるんだったら、それで海の歌を聴くことができるよ」と言った。
僕は、お年玉を全部、だすことにした。
本当は少し、考えたけど、妹が海の歌を聞きたいなら仕方ない。
僕と妹とおじさんではなくおにいさんは、屋上の扉を開けた。
屋上の扉は重そうで、おにいさんがいてよかったと僕は思う。
扉からは、光がはみだしてきて、眩しかった。
僕は目を瞑ったけど、妹は目を瞑らなかったらしい。

そして、僕たちは屋上のベンチで海の歌を聞いた。水色の風船とよく似合っていた。
妹はすごく嬉しそうで、帰りのエスカレーターは行く時よりも上手になっていた。
海。海に歌があるのか。
歌ということは音ではないんだ。