天使・前3。

『ナイターとウイスキー』

アルプスの最上段から眺めると、球場の緑色はとても鮮やかで人工的な色だなと思った。
私は予備校生になりたてで、まだ少しだけ気持に余裕があったから、甲子園で売り子のバイトをすることにした。
給料は完全歩合制で、売上げの5パーセントを一日ごとに支払われる。
募集は短期、阪神巨人三連戦の三日間だけだった。
1993年シーズンの伝統の一戦はチケットなんて取れなかった。球場でしか味わえない熱狂を見たかったし、きっと、これから受験勉強を始めるとなると、ゆっくりナイター中継をみることなんてできない(というより、自分を律して、みないようにしないといけない)との思いもあったので、せめて、夏の模試が始まるまえに見に行こうと思ったのだった。
売り子は、契約している商店によって、売るものが違う。
私を雇ったN商店はウイスキーのみを専門に販売していた。
ほんとうは、ビールの方が需要もあるし、その分、給料も高いのだが忙しく売り歩くのは大変そうだった。
かといって、募集広告に売る商品のことなど書いてなかったので、自動的にウイスキーを売るしかなったのだが。
一日目は、阪神が巨人に負けた。
ウイスキーの小瓶が1ダース入った段ボールと、ロック用の氷を入れるクーラーボックスの二つを交差させて肩にかけ、プラスチックのカップを段ボールの隅に挟んで売り歩かないといけない。需要、単価に対して、売り子にかかる負担は大きい。ビールなら、缶ビールの段ボールだけですむ。しかも、ウイスキーは売れない。
企業の接待で使われるような年間指定席や、ボックスシートならまだしも、ほぼ立ちっぱなしで応援している外野席なんかで売れるわけがない。一日目はコツをつかめず、外野やアルプス、すべての座席に行ってみたが、内野以外で売れることはなかった。しかも、ぎゅうぎゅうの外野席は、人の出入りが激しいため、荷物を持って歩くだけで邪魔になる。
思うように売れない(あたり前だろう、とその時も今も思うけど)し、歩合制だからと頑張って売ったところで五千円程度にしかならなかったので、二日目は野球をみることを中心に売り子をすることにした。ただ、三十分おきに本部に戻らないといけなかった(売り歩いている間、ロックの氷が溶けるので、その交換もあり)ので、内野の適当なところでふらふらと「ウイスキーいかがですか」と声をかけ、顔だけは試合を観戦していた。
甲子園の通路は狭いので、大荷物を持った私が動かないでいると、すぐ近くの客が見えないと怒鳴ってくる。
今まで自分も関西人であったのに、この時は関西人のガラの悪さを感じずにはいられなかった。
他府県の人が、関西弁のことを喧嘩しているように聞えるから怖い、というのも納得できた。
というか、彼らは喧嘩しようとしているのだ。そう、思った。自分の思うようにいかないと、世界に喧嘩を売る人種なのだ。
自分も含め。

外野は最上段まで目いっぱい人がいて、その上、応援団が至るところで大きな旗を振り、ラッパをかき鳴らす。
せせこましい空間で、みんながみんなメガホンを打ち鳴らす。足もとには、もちこんだ弁当の食べガラや、ビールの紙コップ、まだお茶の残るペットボトル(持ち込み禁止だが、かばんの底に隠してもって入る人が多い)が横になって転がり、足の置き場がない。
外野には行きたくないな。
内野指定席の阪神側、巨人側を行ったり来たりしていると、いい時間になった。
七回のラッキーセブンは、内野の最上段でゆっくり風船が飛ぶのでも見物しよう。
最上段に着くと、階段の端に座り込み、膝の上にウイスキーと氷のバッグを抱えた。
周りの席に座った人たちは、それぞれジェット風船を膨らまし始める。
私はふと、グラウンドとは反対、球場の外に目をやった。
阪神高速がすぐそばをはしっている。道路には三メートルほどの壁で目隠しがされているので、ここからは車が見えない。
真下に目をやると、球場外には人の姿はみえず、静かだった。
ふいに歓声が上がり、グラウンドを振り返ると、七回裏、巨人の打者が三振で終わったところだった。
阪神タイガースラッキーセブンの攻撃です。
場内放送の女の声が告げる。
続いてコミカルな曲が場内に響く。
色とりどりの風船がライトに照らされ、ジェリービーンズが食ってくれ食ってくれと立ち上がっているように見える。
風船を持った人たちは、音楽に合わせて風船を上下に揺らす。音楽はコミカルに。
たたたたたたたたた たーたたたたーたたた たーーーたったたー
という、トランペットの音とともに風船が一斉に放され、上に飛び上がっていく。
ジェリービーンズは、霊魂のように夜の空へと舞い上がる。藍色の空にピンクやオレンジ、イエロー、ブルー。カラフルで、つやつやしたウインナー状の物体が入り乱れる。風船は真直ぐに飛ぶんだり、うねりながらほかの風船とぶつかったりしている。
人々は歓声をあげ、手をたたき喜ぶ。
ジェット風船のピューという音。
萎んで落下する霊魂の皮。
歓声の合間に救急車のサイレンが聞えた気がした。
阪神高速の目隠しが途切れているあたりを赤いランプが通り過ぎていくのがわかった。
その先に目を向けると、細い灰色の煙がのぼっている。
また、もう一台、赤いランプが通る。
球場の方へ体を向けると、近くに座る人たちはまるで気づかないようで、メガホンを打ち鳴らし、応援団のラッパに合せ、選手を応援する歌を歌っていた。打者がライト前にヒットを打つと、メガホンを細かくたたき、喜びを表現する。
私はもう一度、阪神高速のほうへ目をやった。
煙はさきほどより、太く、より天の方へ昇っている。
球場の外には、先ほど人々が飛ばした、風船のカスが散らばっていた。
今はごみにしかみえない。実際、ごみでしかないのだ。
フェンスにもいくつか引っかかっている。
歓声があがる。次の打者がゲッツーになり、歓声はため息にかわる。
しかし、すぐにラッパは次の応援歌を奏で、人々はメガホンを打ち鳴らす。
試合は、最終回に外国人選手のパチョレックがツーアウト二塁で、ヒットを放ち、阪神が勝った。
内野のバックネット裏でみたパチョレックは大きかった。バックネットに群がる人たちとは違う人種なんだと思った。
人々はメガホンを持ったまま、パチョレックのヒーローインタビューにメガホンで拍手を送る。
私は、本部に戻り、わずかな給金をもらった。
ヒーローインタビューは続いている。
私は、N商店のアルバイトを仕切る大学生風の男の人に、片づけを頼まれ、殻になったウイスキーの段ボールを潰しにかかった。ほかのアルバイトの分も合わせると、結構な量になる。それを重ね、球場外のごみ置き場へ持っていく。
球場外には、すでに引き上げてきたファンの姿があり、駅の方へ小走りに向かっていた。
私はもう一日雇われていたが、次の日は休むことにした。
自分が受験生で、受験勉強の方が大事だとかいう、即物的なことではなく、もっと大事なことがあるかもしれない。
ふいに、焦燥感のようなものが沸き出した。受験勉強が大事だとかいうのではなく。
もっと、球場の最上段でみた光景のように大事なのことだけれど、見過ごしていること。それを思った。